『トウモコロシ』収録の一編、『記念写真』を全文公開します。ぜひご拝読ください。

 僕の名前はホウシ。
 俳優をめざしている二十歳、男。
 バイト、彼女、バイト、友達、それと、たまに家族っていうのが僕の最近のルーティーン。あとは、週に一回、俳優養成の専門学校に通っている。世間はよく安定した仕事をしろとか俳優なんて夢ばっかり見ているんじゃないとかそんなのはただの現実逃避だとか、あーだとかこーだとかいろいろ言う。でも僕はこの生活が気に入っている。だって夢を追うのって楽しいから。
 僕がもっとも尊敬している俳優は原田恭司。
 彼の場合はそこに存在するだけでひとつの空気ひとつの世界をつくることができる数少ない俳優だ。こう見えても歴とした俳優の卵でもある僕は、彼がつくる貴重な空気を一度だけ体験したことがある。それは学校の授業でドラマの撮影見学に行った時に。リヴィング風のセットの中で、奥さん役、娘さん役と、夫役の原田恭司がいわゆる家族の一コマってやつを演じていた。家族団欒。彼はただそこにいて女優たちの演技や彼女たちの気ままで華やかな空気をやさしく受け止めて包みこんでいた。まるで本当のお父さんみたいに。それを見てわかったのはやっぱり彼はすごいってこと。撮影が一区切りすると彼は僕たちの方にやってきた。
 「見学かー」
 そう一言だけ言うと、憧れの俳優はタバコを口の端にくわえてどこかへ行ってしまった。通り過ぎる時、たまたまドアから一番近い場所にいた僕の肩にポンと手を置いて。僕はそれだけで感動で興奮してますます彼に憧れずにはいられない。なんだか本当のお父さんみたいだ。僕は将来あんな俳優になるって決めている。いるだけでその場を包みこめるような、そんな俳優に。それが俳優を目指している僕の目標。
 それからもうひとつ報告しなければならないことがある。
 最近になって僕には、生まれて初めての彼女ができた。出会ったきっかけは先輩の舞台を仲間と見に行った時。劇場でたまたま隣の席に座ったのがその彼女で。誘われてきたのか一人できたのか赤いベロアの座席に両足をのせて体育座りをして。細くて、茶髪で、目だけ大きくて。大きめの座席に所在なさげにちょこんと座る彼女の姿を見ていると。
 ひとりぼっち。
 そう、そんな言葉がよく似合う、と、僕は一人、彼女を見ながら思っていたっけ。結局彼女の隣席は空いたまま、最後まで彼女は一人で舞台を見ていた。そして、そんなひとりぼっちの彼女を僕も最後まで見届けたんだ。舞台の後、俳優の仲間たちと遅い夕飯を食べてビールを飲んでクダを巻いた。これも一つのパターンってやつで、夕飯という飲み会がお開きになって家に帰ろうとする頃には、隣の座席に座っていた“ひとりぼっちの彼女”のことなどすっかり忘れて、いい気分で酔っぱらっていた。だから最終電車のホームでもう一度彼女の姿を見かけた時には、名前すら思い出せない遠い知りあい、昔の同級生だったかな? なんて首をかしげて、僕の視線が彼女と交わる。きっとその時、僕の顔には懐かしさみたいなものがにじんでいたに違いない。思わず前のめりになって一歩踏み出して『あっ』なんて指差して、間抜けな声をあげてしまった。それで彼女も『ん?』とかえして。お互いにお互いを確認するようにジリジリと歩みよる。彼女のつけているマスカラの色が紫色だと識別できるところまでくると彼女はフウっと息をついた。間近で見る彼女の顔はすこし怒ったような困ったような、あきらめたようなそんな顔だった。それから一呼吸置いて彼女は言った。
 「あんた、車酔いするでしょう?」
 初めて聞いた彼女の声は思ったより響くドラムンベース。
それを聞いて安心したのか、僕は、さっき食べたばかりの串焼きやビール、夕飯として胃に収まっていた物を彼女めがけておもいきり吐き出してしまった。僕よりも背が低い彼女の顔に、かつての夕飯がとびかかってしまって、紫色のマスカラが落ちてしまうのではないかと一瞬心配したがそんなことよりも、彼女の怒って困ってあきらめたようなその顔が、瞬間、笑ったかのようにも見えて、なんだか急に大切なものを見せてもらったような、温かいような、不思議な気持ちになったりしていた。そしてその時、僕はわかった。これから先、きっとこの人とたくさん交わることになるだろうと。
 彼女の名前はルミコ。
 小さくて慌てん坊でだらしなくてとっても強い目をもつ愛しいヒト。ルミコはスタイリストのアシスタントという仕事をしていて、ほぼ24時間をその師匠に捧げている。ときたま僕は焼きもちをやいて、僕と師匠、どっちが大事? ってなことを思うけど。僕はそれを口に出したりはしない。師匠がクロだといえばシロくてもクロ。それがその世界のオキテなんだそうだ。
「ま、奴隷みたいなもんよね」
彼女はこぼす。もちろん無償。だから僕たちは常時貧乏カップル。でもそれがまた楽しい。いかにお金を使わないでデートをするか。ささやかなアイデアがデートを盛り上げる。僕たちはよく日が沈んだあとに街や通りを散歩した。これならお金がかからない。そしてそれで十分。僕とルミコはよく手をつないで街を歩いた。ルミコの爪にはいろんな色がのっている。僕の手から彼女の指先が頭を出すとカラフルな花束を握っているようにも見える。僕はこの手に小さな花束を握って街の中を歩く。女の子の手がこんなにやわらかいなんて。潰してしまわないように大事にそれを握りながら僕は世の中すべてに感謝したい気持ちになる。
「いつか私がスタイリングするの。ホウシの服を」
追いうちをかけるように彼女は言う。そう言われると僕はほんとうにぎゅーとなって。だから思わず彼女をぎゅっと抱きしめる。ルミコは目を閉じてじっとして安心して抱擁から解放されるのを静かに待っている。抱擁は終わることがない。終わることがないのにそこからまた始めなければいけない。ルミコとの日々は甘い絶望の連続なのだ。
 
 ある日、母から連絡があった。
「家族みんなで記念写真を撮ろう」と。
 僕には兄が二人いる。年長のマサシは二十六歳。実家から遠いところの大学を出ると、建築関係の専門学校に一年通い、今年から父の事務所を手伝うことになった、寡黙な長男。父は細々とだが自宅で設計事務所を構えていて、週末以外はいつもそこで作業している。今どきパソコンを使わない化石ものの設計事務所で。母との電話で父の話になると図面をひく静かなその後ろ姿を思い出す。父もまた寡黙。社員は経理のおじさんが一人、あとのこまかい事は母が手伝う。
 一度、誰が事務所を継ぐのか僕たち男三人兄弟で話したことがある。
「兄貴が嫌なら俺がやってもいいよ」
 と、次男ヒロシは真剣ふうだった。
 僕も一番上のマサシ兄も、すぐには言葉を返さなかった。
 僕はただうやむやに会話に参加していただけ。僕は継がない。そう思いながら。
 あれから日がたち、マサシ兄にどういう心境の変化があったのかわからないが、彼は継ぐ決心をしたようだった。父の営む古くて小さい設計事務所を。そして継いでもいいよと真剣ふうにいっていた次男のヒロシ兄は今年、国内便のパイロットになった。これもまたどういう心境の変化かはわからないが、とうとつに。だから今年はマサシが実家の仕事を継ぎ、ヒロシがパイロットになり、僕がハタチになった。そしてそれから彼女もできた。
 
「だから記念にみんなで写真を」
 
 母からの電話を切ると僕はさっそく実家に帰る準備を始めた。写真用のちょっとしたスーツと、数日分の下着。あっという間に準備ができる。普段、部屋にいるほとんどの時間を僕はルミコと一緒に過ごす。ゲームをしたり洗濯ものをたたんだりご飯をつくったりお風呂掃除したりセックスしたり。僕はこのありふれた甘い日常をこよなく愛している。
 ソソクサと準備する僕にむかってルミコは、ずいぶん尻軽なのね、と、ほっぺたを膨らます。僕は、膨れるルミコも好きだ。だけどそんなルミコをおいてきぼりにして急に実家に帰るのも好きなのだ。母一人しかいないルミコには、兄弟がいる僕が羨ましいのかもしれない。尻軽な僕にルミコは小さな花を渡してきた。道端に生えている小さな小さな薄紫色の花。なんていう名前の花なんだろうか。一緒に歩いている時にルミコがそっと摘んでいた花。
「これ。写真撮る時に胸ポケットにさして。そのスーツに似合うから」
 花なんか恥ずかしいからいいよ。と、僕は一回断ったものの。濡らしたティッシュに大事そうに包む彼女の小さな背中を見ていたら、あんまり無下に断ることもできず、ルミコの代わりにその小さな花を僕は実家に連れて行くことにした。2時間後には電車に乗って実家へとたどり着くことだろう、尻軽の旅。
 ちょっとした変化が気持ちを楽しくさせる。
 
 半年ぶりくらいで家に到着するとそこは懐かしい実家の匂いがした。
 玄関先にはうれしそうな母と、ややうれしそうな兄のマサシが迎えてくれた。荷物これだけ? とか、また背が伸びた? とか、髪の毛は短い方がいいよ、とか、ちゃんと食べてる? とか。そんなふうに僕たち家族は再会のよろこびを表現しながら。その日の夕食は四人で食べた。寡黙な父がいつもより饒舌に話しかけてくる。バイトはどうだ? 彼女とはうまくいっているのか? 僕は、うん、とか、まあね、とかふさわしいと思える形で返事をする。照れくさいからか、うれしいからか食事中、僕たち四人はぐいぐいぐいとビールを飲んだ。
 
 父はお酒が好きだ。律儀な父は二十歳の時からきっちり飲み始めて昨日の今日まで一日も欠かしていない。そうして僕たち家族がはたと気がついた時には、父のお酒の量はどんどん増えて、飲まないと手が震えるようになっていた。だけどだれも父のお酒を止めることができずに暴走機関車のようになった父は今日まで毎日お酒を飲みつづけ、その結果、手は震え、顔はむくみ、よだれをたらし、ときには失禁までする正真正銘の立派なアルコール中毒者になった。子供たち三人が家を出て、母と父の二人住まいだった時期の実家では、お酒をもとめる父とそれを阻止しようとする母とで格闘していたらしい。まさに戦場だったそうだ。
「大変だったのよー。毎日お父さんと相撲をとってたんだから」
 今日の母はいつもよりニコニコだ。息子たちがいて心強いのかもしれない。僕の姿を見て、父もうれしそうに目を細めてお酒をすすっている。言葉数は少ないが喜びのお酒なのだろう。夕食を食べおえると父は、寝る、と小さく背中をまるめてすり足で寝室へ消えてゆく。その姿は父親というよりもどこかのお爺さんのように見えて僕は少し悲しくなった。心配でこっそり後をつけて父の寝室をのぞいてみる。そこで父は寝室の箪笥につかまったまま静止し、ぴくりとも動いていなかった。さっきまでの快活さは消え赤紫色にむくんだ顔でジーッと目をつむり、よだれを流している。父のよだれは床にまで届くながーいよだれ。知らないうちにこんなに小さくなってよだれまでたらすようになって。これじゃあまるで赤ちゃんだ。僕は動かない父に代わってパジャマを着せた。父からはすえたような甘い匂いがして。パジャマを着せながら僕はすこし涙がでた。
 
 
 
 
 
 記念撮影日。
 髪をセットしたいという母を美容室へ車で送った。車の助手席で興奮気味に母が言う。
「お医者さんには金輪際止めないでくださいっていわれたの。そのかわり『明日死ぬかもしれない覚悟をしてください』だって。びっくりしちゃったー」
 久しぶりに家族が揃うからなのか、それとも日本で一番アル中を治しているという日本一先生に巡り会えたからなのか。母は朝からトーンが高い。僕は美容室のイスに腰掛けて雑誌を読みながら母の話を聞いていた。母は髪の毛をセットしてもらっている間中、鏡に映る僕の顔を確認しながらしゃべり続けている。母による日本一先生曰く、お酒を止める行為というのはかえってアルコール中毒の助長になってしまうとのことだった。だから周りにいる家族は何もしないで見守るのが一番いいらしい。その見守るということこそが、家族にとっては一番辛い。アル中本人を変えるには、まず始めに家族が変わらなくてはいけないということだそうで。目から鱗ね、まずは私が変わらなくっちゃ。母ははりきって言う。
「これからは好きなだけ飲んでもらって、たとえ気持ち悪くても二日酔いで仕事にならなくても全部自己責任でね」なんてどこかセイセイとしている。
 
 正直このアイデアは僕にとっても画期的だった。
 ずいぶん前、僕が高校生だった頃。二人の兄たちが大学へと巣立っていき、父と母と僕の三人暮らしになったことがあった。その頃すでに父のお酒の量はそうとう増えていて、ビールからウィスキーへと休む間もなく飲んで飲んで。僕はそんな父の姿を見て体を壊してしまうのではないかと心配のあまり久しぶりの習字で『禁酒』と綴った貼り紙を家のあらゆるところに貼ったことがある。効果があったのかどうかはわからない。ただ自分の中で小さい満足感があったことを覚えている。「これでもう大丈夫だ」といった僕の目算、ちっぽけな満足感は、数日後には粉々になった。つまり父は数日間なりをひそめただけでまったくお酒をやめなかった。僕は少しめげた。それから手法を変えて泣いて懇願してみた。どうぞ、やめてください、と正座で。
「わかった」
 その時父は見たこともないような神妙な面持ちでつぶやき返した。だから今度こそ伝わったと思った。その一時間後、コンビニ袋にウィスキーをぶら下げて帰ってきた父と鉢合わせるまでは。
「ははは」
 袋をぶら下げたまま父は開き直ったようにすがすがしく笑う。憎めないたぬきジジィだ。この時僕は同じようにすがすがしい気持ちで理解した。自分の都合で人を変えることはできない。って。だから母が出会った日本一先生の“止めないでください”という話は納得できる。その通りだ。だって止めても無駄なんだから。そう思うと、重たい荷物をおろしたような解放感を味わえた。マサシ兄も母もそうだったのだろう。家の空気が前よりほがらかだったし。
 
 髪のセットが終わった母を車に乗せてそのまま写真館へゆく。
パイロットになりたてほやほやのヒロシ兄も、写真館に現地集合しているはずだ。ひさびさの家族セイゾロイ。七五三とか、記念日とか、節目にはいつも決まってお世話になっている写真館。僕が小さかった頃には新品で目新しくて、子供ながらに髪の毛にワックスをつけてもらって姿勢を正して写真なんかを撮られると、なんだか一丁前になったような気がしてうれしかったっけ。大人になった僕は自分で髪をセットし、スーツに身を包み、その胸ポケットには小さな薄紫色の花を忍ばせている。
 そうそう、たしかここだった。うろおぼえの場所に日に焼けて茶色くなってしまったショウウィンドウのありふれた写真が目印だ。懐かしい写真館の扉を開けると、変色してシミが浮き出てしまった壁紙に古ぼけたセットのような小さな待合室が僕たちを出迎えた。色彩というものがすっかりあせてしまった、ほこりっぽい古びた待合室。そのほこりっぽさを吹き飛ばしてしまうように真新しい制服を着たヒロシ兄と、その横でうれしそうにはにかむマサシ兄と、でかい兄ふたりに囲まれた父とが先に到着していて待合室の奥にある受付で立ち話をしていた。そこへ母と僕が加わり、古びた待合室はとたんに窮屈になる。僕たち三人兄弟は狭いところであいさつがわりに背比べをする。兄二人をさし抜いて一番背が高いのは僕。2、3年前に二人の兄を追い越してしまった。ちなみに体重は一番軽い。細くてひょろりと手足が長い僕のことを、兄二人は現代人とかタランチュラ(のように手足が長いから)とか言う。車の座席に収まらない長い手足。僕はそのことに対してコメントはしない。ここは現代人としてスマートに振舞うべきだろう。
 
 写真を撮るスタジオは別世界だった。
 バックの壁紙がつるつると光り、つるつるの造花があって、とてもカラフルでぴかぴかしている。イミテーションの新世界。他は煤けて色あせているのにここだけはぴかぴか。僕たち家族は誇らしいような恥ずかしいような、いろいろな気持ちで写真を撮られにいく。父と母は前に座って三人兄弟は後ろに立った。
イミテーションの世界にイミテーションのフォーメーション。
「笑ってぇ、はい、チーズ」
僕たち家族は新世界に負けないぴかぴかのイミテーションスマイルをした、記念写真。
 
 無事撮影がすむと、その日はそのまま家族みんなで夕飯を食べにいった。
 目当ての中華料理は休みだったのでフランス料理へ。♪ちゃらーへっちゃらー♫ 道中三人でなつかしい歌をくちずさむ。なんだかみんなハイテンションだ。
 初めて入った広いレストランにお客は一人もいなかった。西洋風と思われるテーブルと椅子だけがそこにある。寂しい風景に負けないように僕たちは勢いよく店の中を歩く。無表情なウェイターは無駄のない動きでこのダダッ広い空間をパーテーションで素早く仕切り、家族専用のホッタテスペースをつくってくれた。プライベートな空間ができたというのに僕たち家族はなかなか落ち着けなくて、寂しい雰囲気を振り払うようにお互いの近況を報告しあった。一番よくしゃべったのが次兄のヒロシ。パイロットになるまでどんな訓練をしたかライセンスはどうやってとったか今の主な任務は操縦桿について飛行機の操作を体で覚えることだ、などなど。胸をはって説明していた。僕たちはみな、なぜ急にパイロットになろうと思ったのか、しかもよくなれたもんだ、とヒロシ兄の話に聞き入った。少し太り気味だったヒロシ兄の頬はキュっとしまり、精悍な顔つきになっていた。かつて同じ場所にいつも大きなニキビを作っていたあの頃とは違い、肌つやもいい。
「ヒロシ兄、肌荒れ治ったんじゃない?」
「あ、そう? 規則正しいからかなぁ?」
「あ、わかった夜中のバカ食いやめたからじゃない?」
「確かに夜中、食べなくなったなぁ」
 な~んてとぼけているが、ヒロシ兄は夕飯が終わった後、寝る前によく食べていたことを僕は良く知っている。夕飯の残り物をごそごそと取り出すと、ラーメン、煮物、味付けご飯、なんでもありで喰って喰って。見ているこっちがお腹一杯になってしまうくらいそれはもうエンドレスに。一度食べ過ぎて夜中に吐きまくっていたことがあったっけ。それもそこらじゅうに。一番悲惨だったのは、その場に居合わせたのが僕一人だけだったということだ。僕はその時、片付けを手伝いながらヒロシ兄の姿を見て、テレビ番組の大食い大会を思い出していた。チャンピオンといわれていた人が意地でお寿司を口の中につめこんだ。制限時間いっぱい、若手の追っ手から逃げようとして。なんとか逃げきったもののゴングがなった瞬間に食べたものを噴射しながら倒れていった。
「あぁ~吐いちゃってますね~、大丈夫でしょうか?」
 と、心配そうなアナウンサーの声も覚えている。その時の兄も何かから逃げ切ろうとしていたのか。僕はアナウンサーと同じ言葉を頭の中で繰り返す。あぁ~吐いちゃってますねー、大丈夫でしょうか~。でも今は違う。夜中のバカ食いもしない。肌もつやつやに変身したヒロシ兄。パイロットっていう仕事が合っているのか、それとも大切な何かでも見つけたのだろうか? 例えば僕にとっての、胸ポケットに潜む小さな紫色の花のように。
 
 自宅へ戻ると家族全員が解放された魚のように家の中を自由に動き回った。水を飲んだりお菓子を見つけたり、慣れ親しんだ家の空気をすって。やっぱり家が一番いい。
さんざんアルコールを摂取して赤紫色に変色した父は、ナメクジのようにぬたぬたと寝室へかえっていく。その様子を心配そうに見守るヒロシ兄は、ナメクジの後を追う。僕とマサシ兄と母はやっぱり家が落ち着くよね、と、くつろいでいた。それから話題は日本一先生の画期的なアイデアにおよんだ。あんなナメクジ父さんを見ているのは辛いけど、仕方あるまい。見守るしかない。いつだったかマサシ兄も、酒をやめない父をみかねて拳を固めて凄んだことがあったらしい。
「もう、酒やめろよ」
 渾身の気持ちを込めて家族みんなが百万回も使ったセリフを吐いて。
 怒っても、なだめすかしても、泣いても、懇願してもダメ。ダメなもんはダメ。父親にアルコールを止めさせるために、家族全員がひと通りやるだけのことはやった。そして全員挫折した。
 だから、
―もう何もしなくていい―
 というのは、コロッと憑き物がとれたような爽快な意見だ。
 そう笑いあっていた。ナメクジを追うヒロシ兄をのぞく、母、マサシ兄、僕の三人で。そこへ、箪笥につかまっている父の姿を目撃したであろうヒロシ兄がおりてきた。そうとうショックを受けたのか涙で泣きはらした真っ赤な目を怒りで三角形にしている。やり場のない気持ちをもてあましたのか、ヒロシ兄はいくぶん酔った呂律のまわらない口調で僕たち三人にからんできた。
「なんで笑ってられるんだよ」
 三人は半笑いのまま怒りのヒロシ兄にどう対処していいのかわからず、ポカンとしたまま返事をした。
「え?」
「あんなお父さん見て悲しくないのかよ。なんだよあのお父さんの姿は? ひどいじゃないか。それなのになんで笑っていられるんだよ!」
 語気荒くヒロシ兄は肩を震わせた。怒りなのか悲しみなのか。手ごたえのない僕たちの反応が物足りなかったのか。とにかくおさまらない様子で。
「いや、それには事情があるんだよ」
 なんとか説明しようと言葉をさがす。
「いや、だから」
マサシ兄も何か言おうとする。
「だからじゃねーよ。笑ってんじゃねーよ」
 ヒロシ兄が喧嘩を売ると、普段寡黙なマサシ兄が、すっくと立ち上がって、売られた喧嘩をすばやく買い取った。そこからはまるでスローモーションのようだった。
 
 おもむろにマサシ兄がヒロシ兄の襟首をつかんだ。つかんで引寄せると、拳骨で顔面にパンチをくらわした。それも連続で。一回、二回、三回……。その度にヒロシ兄の顔は歪みメキメキっと骨の軋む音がして、僕は唖然としてマサシ兄の顔を見た。普段寡黙で大人しいマサシ兄が、こんなに素早い動きでパンチを繰り出せることに僕は心底驚いた。いや、驚いたというよりは凍った、といったほうが近いかもしれない。もう一度確かめるようにマサシ兄の顔を見ると、鉄拳を喰らわしているマサシ兄の顔には何の表情もなく、ただその瞳は白くにごって膜をはり空をさまよっていた。無表情な顔にガランドウの眼。僕はその眼を見て了解した。要するにもうなにも見たくないのだ。なんにも。マサシ兄は、無機質な動きでよろけたヒロシ兄をもう一度引寄せると、さらにパンチを食らわせる。メキっと音がして鼻が曲がった。その瞬間、血はでない。
続いて膝をつかって顔とお腹に膝蹴りを食い込ませる。倒れ込むヒロシ兄に今度はムエタイ選手のように蹴りを何発も何発もお見舞いした。僕と母はあっけにとられてオロオロと止めようとした。止めようとして間に入ると、今度は僕がマサシ兄の膝蹴りを太ももにもろに食らった。鈍くしびれる痛みが足に走り、その拍子に胸ポケットから小さな薄紫色の花が落ちた。
 その後止めに入った母は、パンチの反動を顔にうけてよろけている。
 ひととおり殴って我に返ったのか、突然マサシ兄の動きが止まった。
 ヒロシ兄は鳴き枯れて顔を腫らし、ぼろぼろの体を床にぐったりと横たえている。あんなに誇らしかった新品の制服が血にまみれてくしゃくしゃだ。
 静寂があたりを包む。全員が放心状態だった。
 一瞬の静けさの後、ヒロシ兄はもう一度振り絞って嗚咽した。
 それはまるで、産まれたばかりの赤ん坊が初めての肺呼吸で出す産声のようにもきこえた。その音でようやく僕は現実に戻ってくることができた。改めて現実世界に戻ってみるとここにいる者全員が、今起こってしまった出来事にどうしたらいいのかわからないでいる、ということがわかった。僕と母は、兄二人から離れてただ立っていた。誰もがどうしたらいいのかわからない状況のなか、上体を起こしたヒロシ兄が怒りで肩を震わせて声を搾り出し、警察に電話する、と、言った。
マサシ兄はそれを聞くなりタオルを持ってきて、猛然と電話へと向かうヒロシ兄についてまわった。今度はマサシ兄がオロオロしていた。
 ごめんごめんごめんごめんごめんごめん……。
 そう、かすれた声でつぶやきながら。
 その声でやっと僕は、もう一度現実に戻った。
「ちょっと待って実はね」
 こんなことを話していたんだ、あの時。ヒロシ兄が鼻息を荒くしておりてきた時。僕たちはね、僕たち家族のことについて話していたんだよ。僕たちは何のために生まれて何のためにこうして家族になったのかってね。だってそうだろう? 不思議なことだよ。こんなにたくさんの人々が生まれて生活する中で、どうして僕たちは家族になったのだろうってさ。父さんや母さんはどうして僕の父さんや母さんだったのだろう。もしそうじゃなかったのなら、父さんや母さんとしてではなく、他人として出会って、他人として関わっていたのかな。僕は父さんや母さんや兄さんたちが大好きだよ。この家の三人目の息子ホウシとして生まれたことがとってもうれしいんだ。そうして父さんや母さん、兄さんたちに出会えたことがとっても幸せなんだ。僕は今、まだ二十歳。だけど年月が経てば寿命がくる。そうしていつか命を終えてどこかにかえる時がくる。そしたら僕は必ずココに戻ってこよう。人間でも、動物でも、そうじゃなくても。そうだ例えば花でもいい。この家の隅に咲く小さな花になって戻ってくるよ。そしてひっそりと花を咲かせて、みんなのことを祝福しよう。春になったら僕のことを摘み取ってテーブルの上に飾ってくれよ。家族の一員としてみんなに笑顔が戻るように、立派な花を咲かせるから。そう、必ずココに戻ってきて立派な花を咲かせるから。
 
 僕たち家族はいつの間にか輪になって座っていた。
「そうだったのかー。それならそうと早く言ってくれよ。わからなかったから俺。やっといい先生が見つかったんだね。だからみんなで笑っていたんだ。てっきり見放してるのかと思って、みんな冷たいよって、頭にきちゃってさ」
そう言ってヒロシ兄は大泣きした。ヒロシ兄の横でマサシ兄も絞るように泣いた。なんてことをしたんだと、頭をかかえて。母もシトシトと降りしだれる雨のように泣いていた。
ふと見ると、寝たはずの父が僕たちの輪におりてきていた。騒ぎを聞いて何ごとかっと心配そうに。ヒロシ兄の赤く膨れ上がった顔と、泣き絞るマサシ兄を見て事情を飲み込んだ父はマサシ兄のホホを打った。
「何をしてるんだ、お前は」
 ペシペシっと頼りない音がして。
 だけどマサシ兄は、うたれるがままに泣いていた。
 それから父は自分の頭を自分の拳で何回も打った。
 自分が悪いと泣きながら。
 家族みんなが泣いていた。
 だけど僕は泣かなかった。
 泣かないことで自分を支えていたから。
 しばらくの間家族は輪になったままその場に漂った。磁場が強すぎたのか僕たちはみな、そこからすぐに離れることができなかった。どれくらい時間がたったのか僕は疲れきった体を引きずるようにしてお風呂に入った。湯船につかると冷え切った体に血が通う。見ると太ももに紫色の痣ができている。クモの巣のような大きい痣。たしかお兄ちゃんたちは僕のことタランチュラって言ってたっけ。
 ほんとうだ。タランチュラのあかしにスパイダーマークができた。
 僕は湯船の中で声を殺して大声で泣き叫んだ。顎がはずれるぐらい大きな声で。
 ボロボロになった小さな花を湯船の中で握り締めて。
 でもきっと誰にも聞こえなかったはずだよ。
 だってそれは声を殺した慟哭だったから。(了)
 

 


『トウモコロシ』
黒澤優子 著
単行本: 254ページ
定価:¥1,700(税別)
出版社: 株式会社パイレーツ大阪
ISBN-10: 4990808401
ISBN-13: 978-4990808402
発売日: 2015/2/17